【留学の記憶①】10年前、私はたった一人で中国へ行った

学び
スポンサーリンク
この記事を書いた人
“こと”

いつでもどこでも楽しみながらできる仕事を考え中の30代主婦。遅れてきた“可愛くなりたいお年頃”。夫が大好き。ときどき学生、ときどき先生もしています。
いつか猫と暮らしたい猫アレルギー持ち。

“こと”をフォローする

突然ですが私、英語より中国語が得意です。駅で困っている人に英語で話しかけられると慌てますが、困っている人が中国語で話していたらこちらから話しかけるぐらい、英語<中国語です。だって中国留学してたもの。

今回は私の中国留学の記憶第1回、留学開始前後のプロローグ編をお送りします。

スポンサーリンク

私が中国に留学した理由

まずは私が留学を決めた理由、しかもそれがどうして中国だったのかお話しします。

海外への憧れと挫折

私が初めて海外へ行ったのは高校3年生の夏休み。親のすすめもあり、当時中3だった妹とともに自治体の姉妹都市であるカリフォルニア州のチコという町で2週間ほど過ごしました。ホームステイ先の家族にものすごくよくしてもらって、お別れの時に大号泣。また、頭の中が英語に書き換えられていく感覚に強く感動し、この時から私の海外への憧れが強くなりました。

季節は変わって受験シーズン。実はこの頃、私には密かな夢がありました。そのためには英語圏への留学が必須。でも私が国立大学を受けるものだと思っている父にそのことをずっと言い出せず、あろうことかセンター試験直前になってそれが爆発し、父とぶつかってしまいました。その日を境に受験勉強を辞め、自分の夢もなかったものにしました。

ボランティアとの出会い

そんな状況だったのでセンター試験はボロボロ。苦手な数Ⅱに至っては19点でした。でも浪人してまで行きたい大学もなく、かといって高卒で生きていく覚悟もできず、センター1科目と内申点で合否が出る大学を見つけて出願しました。

入学式で初めて訪れた大学。友だちができるよりも先に大学の国際交流課へ行きました。でも留学するためじゃありません。サークル紹介で留学生向けの団体があったので、そこに日本人である私も入れないか聞きに行くためです。その団体は留学生が入るものだったのですが、心優しい職員さんが留学生をサポートする学内ボランティア活動を教えてくれて、私はそこでの活動を始めました。

気づいたら私の大学生活はこのボランティア活動一色になっていました。朝一番に交流室へ行き、講義が終われば行き、10分の休みでも行き、講義がない日も行きました。

そうこうしているうちに私は国際交流課の職員さんにも可愛がられるようになり、「今度中国留学の説明会があるから出てみない?」と誘われます。

「どうだった?」

「中国留学面白そうだなって思いました。」

実際はもちろん手続きとか面接もあったんですが、私の感覚としては「ちょっと興味あるかも」の一言以降あれよあれよと話が進み、言われるがままに書類を揃え、それこそ魔法にかけられたかのようにあっという間に中国行きの航空券を手にしていたのです。

なぜ中国だったのか

なので白状しますと、そんなに熱意を持って留学しようとしたわけじゃありません。

だけど毎日留学生と過ごすうちに、「もっと留学生の力になりたい。そのためには私も留学生の立場を経験したい」という気持ちになったり、「友だちの育った国や学校を見てみたい」と考えることがありました。正直、行き先はどこでもよかったのです。このとき私のまわりに一番多かったのが中国人で、一番仲良くしている子が天津出身の女の子だったので、私は中国・天津に行くことにしました。

当時の留学事情

もし一番仲良くしているのが韓国人だったら韓国に行っていただろうし、ベトナム人の友だちが多かったらベトナムに行っていたと思います。

たまたま中国人が多かった。それだけの理由で決めた留学先は、大学の協定校である天津外国語大学(当時は天津外国語学院)でした。ちなみに当時の協定校は、中国2校、韓国1校、ベトナム1校、カナダ1校だったと思いますが、学内で英語圏から来た留学生を見ることはありませんでした。

留学するのは珍しいことだった

興味あるかも、だけで留学できてしまう大学です。カナダに留学する人が年に2、3人いるものの、留学すること自体がメジャーではありませんでした。天津外国語大学は協定校でしたが、大学からたった一人、それも数年ぶりの中国派遣留学生として、派遣元である日本の大学でも派遣先の天津外国語大学でも、それはそれは手厚く・・・

なんてこともなく、両校とも久しぶりの留学生で手続き上の勝手が分からないようで、「まだよくわかんないけど・・・」な情報を元に準備をし、天津に着いてからしばらくは本当に訳が分からないまま過ごしました。

手厚く、といえば、大学としては数年ぶりの中国派遣だったので喜んでもらえましたし、帰国後のインタビューや講演などの機会には恵まれました。

留学先の日本人

同じ大学から派遣される日本人はいませんでしたが、同じ時期から留学している他の大学の日本人はいました。私以外の日本人は同じクラスに4人、みんな関西の人でした。天津は日本人が多く、日本人会というのもありましたが、私はすでにできている先輩たちの輪にも入れず、クラスの関西のノリにも馴染めず、日本人とはあまり交流できませんでした。もちろん普通に仲良くはしていますし、帰国後も連絡を取り合ったりしていました。でも、天津生活で普段から遊ぶのは中国人の友だちばかりでした。

日本人の友だちができにくかった理由はそのほかにも、せっかくの留学中に日本人と群れるもんかという思いがあったこと、語学系の大学だったので日本語ネイティブと仲良くなりたい中国人学生がたくさんいたこと、この二つが大きかったと思います。

留学当初の語学力と帰国時の語学力

私が中国に留学したのは中国語を学ぶためではありませんでした。

語学力よりも、留学生としての体験、外国人になる体験をしたかった。マイノリティとして言葉も不自由なまま外国で生きるということがどういうことか知りたかった。なぜなら留学生の友だちが多くて、彼らの気持ちをもっと深く理解したかったから。

とはいえ中国での授業は全部中国語ですし、留学が決まってから中国語の勉強を始めました。留学前に実用中国語技能検定5級を取っています。

中国にいる間は毎日中国人の友だちと話したり、QQというチャット機能を使って中国語チャットをしたり、とにかく中国語漬けでした。日本語が全く分からない中国人の友だちもいましたし、ルームメイトは韓国人、イタリア人、ウクライナ人で、共通言語は中国語でした。

すると、留学からおよそ10ヶ月後、私の中国語能力はスコア式だった旧HSK(汉语水平考试)でスコア331の7級まで伸びました。(TOEICで言うと800前後の雰囲気です)HSKは数字が大きいほど上級に近づきます。私が受験したのは初中級のHSKで、8級が一番上でした。

これにはまわりの先生たちもびっくり。私も限られた留学期間で成果を挙げられたので、ホッと一安心でした。

***

【天津留学の記憶①】プロローグはここまで。次回に続きます。(たぶん)

コメント